明治維新を迎えた京都では、東京に遷都されることで政治的な地盤が低下し、食料が手薄になるのでは、という危機感があったようです。それとともに、禄を失った氏族の救済ということもあって、目を付けられたのが童仙房の農地開拓。当初の計画にあった士族の転入は取りやめになったものの、京都市内や郡内の有志を募って、明治4年には136戸が移住しました。水田22町歩、畑地115町歩(茶園60町歩、雑畑55町歩)などを含めて合計約140町歩を開拓。同時に寺院や神社をはじめ学校、郵便局、警察署などが着々と整備されたのです。人口は約500人、京都府の童仙房支庁もできたほど。当時の繁栄を象徴するモノとして、この地区で焼かれた童仙房焼きが明治10年のイタリア万国博覧会に出品されたこともありました。しかしながら、明治12年に支庁が木津に移転したことで、徐々に発展のスピードが鈍り、のどかな農村として変貌していくのです。 童仙房は京都府相楽郡南山城村の北部に位置し、大字童仙房を形成していて、21の小字があります。関西本線大河原駅より西北8qにあり、標高500m内外の高原地帯であり、急峻な村道を唯一の交通路にしています。山上のきわめてゆるやかな丘陵状が童仙房で、北部は相楽郡和束町大字湯船に、西部は和束町大字東和束および中和束に、南部は笠置町および南山城村大字北大河原ならびに野殿に隣接し、東部は遠く滋賀県境に及んでいます。東西8km、南北6km、総面概は実に11.6平方kmの拡大な山上準平原をなしています。 童仙房はおおむね第四紀層にして花崗岩に由来する褐色森林土よりなり、土地は湿潤であり、岩石はいたるところに露出し、地下水は高く、耕土は浅く、弱酸性土壌です。 降霜平均 10月下旬〜5月上旬 降雪平均 12月中旬〜3月中旬 旬積雪30p内外に及ぶことがあります。夜間の凍結が強いため、雪が溶けるのに日にちがかかります。
気温は一般に隣町平地より5〜6度低く、夏期といえども木陰では涼しい風を感じます。 冬期は寒さが厳しく、霜柱が6〜10cm上がることもしばしばです。
|